わかり合えること

人との関わりの根本に、人と人は100パーセント理解し合えないというものが私の中にある。

5歳くらいの頃、兄の友達の家に遊びに行って、たしか1日泊まった。友達の家に泊まるなんて滅多にないイベントであるうえ、友達の家に遊びに行くのがすごく好きだった。

兄の友達の家を後にする時は別に何ともなかった。

問題は次の日で、とんでもない非日常の後の日常が辛くて辛くてどうしようもなくて、もうあの非日常はあの時だけだったんだってわかった時に、大声で泣いた。ただただ悲しくて泣いた。時の流れが戻らない。

5歳の私には説明する言葉を持ってなかったし、大人には、みんなにはわからないって思ってた。

 

めちゃくちゃ泣いたのは、好きだったおもちゃを無くした時も。

すごいお気に入りのおもちゃを水族館にまで持って行って、(今思えば案の定)無くした。

また買ってあげるという解決法は何も解決しない。

新しい見た目が同じおもちゃでも、持っていたおもちゃとの思い出は共有されないからだ。

もう無くしたものは戻らないってわかった時にもわぁんわぁん泣いた。

 

小さい頃ってなんか空間の隙間で泣いてた気がする。

友達が泣き真似して、それに騙されてめっちゃ心配してたら、ウソでしたーって言われて、一瞬怒り、その次悔しさ、その次悲しさ、やるせなさみたいな色々な感情が込み上げてよくわからなくなって泣いて、意地になって泣き続ける、みたいな。よくわからないことがよくあったな。

 

泣く時って、同情してほしいから泣くんじゃなくて、泣いた時点でもうわかり合えなかったから泣いてたり、自分の気持ちが抑え切れなくなって泣いてた。

悲しい気持ちって、難しい。考えるものじゃないなぁ。

嬉しい気持ちとか悔しい気持ちとかはわかり合える気がするけど、悲しい気持ちってわかり合うのが難しい。

 

あと、「おぉ、わかってくれるか」って言っちゃう不器用な男性に弱い。グラっときちゃう。めちゃくちゃ好きだった人がそうだったからかな。

会いたいと思っても、好きだった会いたい人は私の頭の中にしか、過去にしかいないのも、悲しいな。

「わかる」とか「それ好き」とかって言うだけで、なんですごくわかり合えた気になるんだろう。それがすごく、楽しかった。